HOME > 法律コラム > 刑事裁判の多くは本人が犯行を認め、目撃者や証拠が揃っています。ではなぜ刑事弁護人が必要なのでしょうか?
知っての通り日本の刑事裁判ではすべての被告人に弁護人がつけられる。
被告人自身に弁護人を雇う経済力がない場合には、弁護人の報酬は国費で賄われる。
これもご存知の通り、国選弁護人である。国選弁護人の報酬は弁護士の通常のものと比べるとかなり低いとはいえ、当然ながらこのために使われる費用は全体では膨大なものとなり、かなりの額の税金が被告人のために使われていることになる。
弁護人がいなければ簡単に結論が決まる裁判も、その抵抗にあって長引いてしまうこともあり、しばしば効率も悪くなる。
いや、効率という点を考えるならば、弁護人はいない方がいい。その方が早く決着がつくのはほぼ確実なのである。
この弁護人選任権、憲法でも定められている被告人の権利のわけだが、そしてその権利について、一応は社会一般的にも了解が取れているとは思うが、しかしそもそも犯罪を犯した人間をそのように擁護する必要があるのか、それが普通の人の感覚ではないだろうか。
非難され断罪されるべき被告人が、弁護士という高い資格を持った人間によって守られ、その費用が税金によって出されているという事実、本当に納得がいっている人はごく少数なのではないか。それにもかかわらず守られる刑事被告人の弁護は、なぜ認められているのか。
刑事弁護人が必要な理由としてまず最初にあげられるのが冤罪の危険である。
最近ではよく知られるようになったが、被疑者となった人間は犯罪捜査の段階でかなり強引な取り調べを受ける。
たとえその犯罪を実際には犯していなくても、よほど意志の強い人間でなくては自白をしてしまう、そのようなことは決して珍しくはない。一度自白をしてしまったら、それを覆して自分の犯行ではないとするのは非常に難しい。自白に頼る傾向が強い我が国の犯罪捜査において、そのような危険がある以上、被告人は弁護人によって守られなければならないということである。
確かにこの理屈には説得力がある。無実の罪で被告人を罰するということは、なんとしても避けなくてはならない。これは効率性や費用の問題にも当然に優先する。
でもそうだとしても、次の疑問が生ずる。
被告人が犯行を行ったことが明らかな場合はどうなるのか。
冤罪の危険を考え難いケース、現行犯逮捕の場合はもとより、多くの目撃者がいて物的証拠もそろっているような事件などはどうなのか。
実は刑事裁判のほとんどは、被告人の犯行は明らかであって本人も犯行を認めているものであり、そういった裁判で争われているのは刑の軽重なのでである。つまり被告人側からいえば、刑期を短くする、あるいは罰金を安くするために弁護人がつけられているのである。
このようなことをいうと不快に 思う人もいるかとは思うが、現在の裁判では量刑にはほぼ”相場”というものがあって、いくらか幅はあるものの犯罪の態様により刑の重さは決まってしまい、検察官の求刑通りであってもそんなに不当な量刑となることはほとんどない。そこで刑を少しばかりでも軽くするために、弁護士をつけて被告人を擁護させる必要がどこまであるのか、そこに疑問を感じないだろうか。
さてここまで、裁判で刑事弁護人をつけなくてはならないという規定がよくないかのように書いてきた。しかしながら実は私は、刑事被告人に弁護人が必要という考えをいくらかでも否定するつもりはない。刑事裁判において弁護人は必要だし、どんな被告人にも弁護人はついていなくてはならない。ではそれはなぜか。
それを考えるにはそもそも裁判とは何なのかを問う必要がある。
刑事裁判とは被告人の罪と罰について判断を下すために開かれるものである。
裁判所は被告人の懲罰を目的として作られた施設ではないし、裁判は被告人を罰するために開かれるわけではない。被告人について刑罰に処するのが正当なのか、正当だとしてその量刑はどの程度が妥当なのかを判断し決定する、それが裁判の目的である。
その点、裁判所は刑務所とは違う。正当な判断がなされるためには、当事者は双方とも自らの言いたいことを十分に主張する機会が認められなければならないし、判決はそれを十分に聞いた上で下されなければならない。そのためにはどうしても法律の専門家である弁護人が、被告人にもついている必要がある のだ。
被告人の多くは家庭環境に恵まれず、学校も休みがちであったり十分な教育も受けられず、そうした劣悪な環境が犯罪に走らせてしまうような背景があるのも事実だ。理由はどうあったとしても犯罪はもちろん犯してはならないし、犯してしまったら自ら刑罰によって償わなくてはならない、そのことは当然だが、その刑罰について判断するためには、犯罪に至った経緯からその背景まで主張を制限されてはならない。そのことによって裁判所はその正当性を被告人に対しても示さなくてはならないのだ。
現在の弁護のあり方が本当に正当であるかは論じるべきところはあるかも知れない。でもそれは別論であり、裁判において被告人に弁護人がつけられなくてはならないという理が揺らぐことはないのである。